地方創生という言葉がまだどこか他人行儀に聞こえる理由

地方創生という言葉を聞くたび
少しだけ立ち止まる。
言葉そのものに反対があるわけではない。
地方が元気になること。
人口減少に向き合うこと。
地域に仕事をつくること。
どれも大切だと思う。
ただこの言葉はあまりに大きい。
暮らしの実感をうまくすくえていないように
感じることがある。
地方創生。
正しい。
けれどどこか遠い。
そう思うのは
この言葉が最初から政策の言葉として
広がったからかもしれない。
───
2014年
増田レポートというものが出て
地方消滅という言葉が強い危機感とともに
広がった。
その流れの中で 地方創生という
言葉が出てきた。
社会危機を前にして
誰にでも分かりやすい
言葉は必要だったのだと思う。
国としても自治体としても
名前をつけて進めなければならなかった。
ただそこから10年ほど経った今
振り返ると
地方創生という言葉は
ずいぶん長いあいだ
空中戦をしてきたようにも見える。
計画があり
交付金があり
事業があり
事例があり
視察がある。
どれも必要だったはずだ。
けれどその一方で
暮らしの側の実感は
そこまで厚くならなかった。
言葉は何度も見た。
資料にも会議にも提案書にも幾度となく出てきた。
でもそのたびに思ってしまう。
これはいったい誰のため?
誰のために語られているのだろうかと。
───
地方創生が難しいのは
地方を変える話である前に
地方に残っているものを
どう見るかという話でもあるからだ。
新しい施設をつくる。
人を呼び込む。
雇用を生む。
観光を伸ばす。
こうした話は分かりやすい。
成果にもなりやすい。
けれど 地方にはもともと
数字になりにくい営みがある。
名前もつかない気配。
続いてきた所作。
誰も説明しないけれどそこにあるふるまい。
そういうものが
いつの間にか少しずつ薄くなっていく。
その薄くなり方のほうが
地方創生という言葉より先に
地方の現実を語っていることもある。
───
別府にいると
ときどきそういうことを思う。
例えば別府ではいまだに大衆浴場に
パンツ1丁でふらっと出かけていく
年配の人がいる。
もちろん誰かに見せるためでもない。
観光の演出としてそうしているわけでもない。
ただ その土地で
生きている人の日常として
それがある。
ああいう風景は
立派な観光ポスターにはもちろんならない。
補助金の成果にも数えにくい。
けれど地方の面白さや豊かさがあるとすれば
むしろああいうところに
宿っているのではないかと思う。
そしてそういう風景は
気づかないうちに消えていく。
無理のない習慣が失われる。
近所との距離感が変わる。
湯のある暮らしが
少しずつ特別なものになっていく。
地方創生という言葉が
もし本当に必要なのだとしたら
こうした変化を見つめるための
言葉であってほしい。
何かを足すためだけの言葉ではなく
何が薄れているのかを
見失わないための言葉であってほしい。
───
観光の世界でも
似たことが起きている。
人を呼ぶことはできる。
賑わいをつくることもできる。
宿泊者数や来訪者数は
ある程度つくれる。
でもその地域に住む人の時間が痩せていくなら
それは本当に創生なのだろうか。
地域の側に負荷だけが残り
営みが削れていくなら
それは地方を元気にしていると言えるのだろうか。
住んでよし
訪れてよし。
最近ようやく
その順番が言われるようになってきた。
本当は最初からそうであるべきだったのだと思う。
訪れてよしが先に立ちすぎたとき
地方はしばしば
風景だけを差し出す場所になる。
けれど本来の地方の強さは
眺められることではなく
暮らされていることの中にある。
───
地方創生という言葉に違和感が残るのは
その言葉が間違っているからではない。
まだ地に足が付いていないからだと思う。
正しい言葉ではある。
でもまだ誰かの暮らしをよくする
言葉にはなっていない。
少なくとも自分にはそう見える。
だから今さらながら思う。
地方創生とは
何か新しいものを生むことよりも
その土地にすでにある営みを
残すものと変化するものを見定めて
次の世代へ渡していくことなのかもしれない。
それが観光なのか。
仕事なのか。
宿なのか。
まちはどう支えるのか。
その答えはまだきれいには見えていない。
ただ立派な言葉を増やすことより
暮らしの実感を見失わないことのほうが
今はよほど大事に思える。
地方創生という言葉を
もう一度信じ直せるかどうか。
その分かれ目は
たぶんそういう小さな風景のほうにある。
