講談に惹かれる理由を冬の義士をきっかけに考えてみる

冬になると「義士」という言葉をよく耳にする。
ただ正直に言えば、
私は深く知ってきたわけではない。
興味も薄かったし勉強も得意ではなかったので、
歴史的な理解もほとんど持たないまま
人生を過ごしてきた。
そんな私が義士と言う題材に触れたの
最初のきっかけは、
神田松之丞(現在の伯山)さんだった。
テレビ番組のENGEIグランドスラムで、
宮本武蔵の噺を披露していた。
あの一席が妙に刺さり、
よく知らないはずの題材なのに、
思いのほか深く心を掴まれてしまった。
※今考えると幼少期
じーちゃんが年末に見ていた
死ぬほど退屈さを感じていた
時代劇の忠臣蔵の題材だったことは
後に知ることになる。
そこから音源を探したり、
実際に高座へ足を運んだりするようになり、
気づけば講談が生活のどこかに入り込んでいた。
───
最初に出会った音源が
「赤穂義士伝 荒川十太夫」だった。
これがとにかく面白く、
泣けて、痛快で、
どこに感情を置けばいいのか迷うほど
詰め込まれていた。
優しい嘘は時に人を救うことがある。
その嘘が巡り巡って大輪として花開く。
そんな余韻がある噺だ。
歴史的な知識が乏しくても、
物語そのものが人の感情を掴んで離さない。
では、なぜだろうか。
───
昔の人物の物語を聞いて、
なぜ現代の私たちが同じような感情を覚えるのか。
時代も背景も価値観も、
本来はまったく違うはずなのに、
なぜか心のどこかで
分かると感じてしまう瞬間がある。
考えてみると結局のところ、
相手にしている題材が人なのだという
当たり前に行き着く。
義士伝が長く読み継がれているのは、
義という正義や忠義の話でありながら、
中心にあるのが人と人の関係だからだ。
覚悟
迷い
欲
弱さ
優しさ
後悔
時代は変わっても、
人が抱える根っこはそんなに変わらない。
だからこそ、
義士伝のような物語は
歴史の話としてではなく、
人の話として聞けるから感情に染み込んでくる。
───
もう一つ、講談を聞いていて感じることがある。
義士伝に限らず、
多くの講談が「別れ」を丁寧に描く。
旅立ち
断ち切り
約束
再会
託す
許す
こうした転換があるから、
物語に移入が生まれる。
私たちの日常にも、
大小関わらず別れがあり、
そのたびに何かを手放し、
また何かを受け取って生きている。
講談の物語が心に刺さるのは、
その構造が現代の営みと
どこか重なるからかもしれない。
───
冬に義士が語られる理由を、
深く理解しているわけではない。
ただこの季節になると講談に触れたくなるのは、
物語そのものより、
そこに流れている人の感情に惹かれている
からだと思う。
時代が違っても、
語り方が変わっても、
人の営みの本質は大きく変わらない。
そして荒川十太夫の噺の最後には
こんな一句が出てくる。
騙されて
心地よく咲く
室の梅
嘘を見抜くより、
その嘘が誰かを救っているかどうかの方が
人にとってはずっと大切なのかもしれない。
歴史の細部より、
その奥にある人の情の方が心に残る。
そう言った余韻が人の感情を動かすんだろうと
思いながら冬の肌寒さも相まって
より講談が恋しくなるのである。

